シンゴジラについて思うこと その1
どんなことでもそうなのですが、物事のしょっぱなが一番大変です。
例えば、ブログの書き出しとか。
というわけで今日はシンゴジラについて思うことを書いていこうと思います。
ゆるくやっていくので、あんまりいじめないでね
シンゴジラを視聴済みの人たちに向けて書くので、ネタバレをしたくない人は閲覧をご遠慮ください。
シンゴジラに限った話ではなく、一般論から始めようかと思います。
映像作品は『ストーリー』『映像、音』『演出』の3つの柱から成り立つと僕は考えていて、これらの軸で評価をしていくと色々スマートに論じることができるんじゃないかなと考えます。
もちろん、これらの軸は人によって増えたり減ったりするでしょうし、また僕が挙げた3つも独立ではなく深いところで繋がっていたりします。(例えば、演出は映像抜きでは存在しえません)なので、絶対的なものではなく、あくまで一つの指標だと思ってください。
さて、シンゴジラの話ですが、結構評価が割れてるように思います。まあそれは仕方のないことで、シンゴジラは普段私たちが触れる映画とは違う作りかたをされているためです。
というわけで、シンゴジラは「普通」の邦画と何が違うのか、ということをメインにしたりしなかったりしながら先に挙げた軸に基づいて話をしていこうと思います。
まずは、ストーリーについて。
……といっても、ストーリーについてあまり語るべきことはないように思います。というか、巷では『シンゴジラにはストーリーがない』とさえ言われています。そう言われてみれば確かにそんな感じがします。
ですが、そもそも、『ストーリー』あるいは『物語』という言葉はなんでしょう。なんとなく共通の合意が得られた単語のように使われていますが、冷静に考えるとこんなに捉え辛い言葉もないように思います。果たして、ストーリーって何なんでしょう。
プロットはストーリーとは異なる。プロットは因果関係であり、ストーリーは単なる前後関係である。「王女は雪山に逃げた女王を追う。だから、王女は雪山で女王を見つける」[3]はプロットである。一方で、ストーリーは、出来事を起こる時間の順序どおり、省略せずに並べた文章であり、プロットとは区別される。「王女は雪山に逃げた女王を追う。それから、女王は魔法で氷の城を造る」[4]はストーリーである。このように、「だから」で出来事のつながるものがプロットであり、ただ単に「それから」でつながるものがストーリーである[1][2][5]。
我らがWikipedia大先生に教えを請いました。これによるとストーリーとは『単なる前後関係』だそうです。いくらなんでも二時間の映画に前後関係すらないとは考えにくいので、『シンゴジラにストーリーはない』というような文脈で用いられる際の『ストーリー』は単なる前後関係以上の何かの意味が込められていそうです。
個人的には、よく用いられるストーリーあるいは物語なる言葉は『因果関係のうち、人間の感情によるもの』として使われることが多いように思います。例えば、『父が死んだ。そして間もなく母も死んだ』というよりも『父が死に、悲しみのあまり母も死んだ』といった方が「ストーリー」があるように思われます。以下では、ストーリーとは感情の絡んだ因果関係だ、ということにして話を進めていきます。
シンゴジラでは私生活の描写は徹底的に削がれています。公私の『私』を全く描いていません。これが今までの日本映画では矢口あたりがほの暗い団地に帰って奥さんに励まされる的な描写があったんじゃないでしょうか。じゃあ内面描写もないのかというとそうでもありません。がれきの山を前に黙とうをささげる矢口を見て観客は『ああ、この人は熱い実直な人なんだな』とうかがい知ることができますし、矢口が激昂するシーンでは観客は『ああ、この人は今追い詰められているんだな』とうかがい知ることもできます。
そうはいってもやはり、登場人物の感情の描写は控えめです。それどころか、登場人物のバックグラウンドもほとんど語られません。回想シーンすらありません*1。ですから、『この人はこんなことを思っていて、だからあんなことをしたんだな』とか、『この人の家族はこうだから、こんなことをしたんだな』などと考えることが難しいわけです。
でもそれって、日常生活では割と当たり前のことなわけです。神の視点を無くすことによって、その場で会議を眺めてるようなリアリティを感じられるわけです。*2今作はリアリティがある、とはよく言われていますが、こういった脚本レベルで工夫がなされているように思います。
……なんだか非常に演出と被る話になってしまいました。もう少し脚本にピントを合わせた話をしなければなりません。
今作のシンゴジラはナショナリズムを感じさせるという意見があり、僕も確かにそれはそうかもしれないなあとは思うのですが、正直見てる間はそこまで気になりませんでした。
なぜかというと、ゴジラという未曽有の大災害と直面して、国を救うぞ!と力んでいる役人たち、しかも出世コースから外れた役人たちが日本のためを思っていないはずがないからです。*33.11のときにも、がんばろう日本的なスローガンが流行りましたが、あれの延長だと思えばそこまで鼻につかなかったかなー、って感じです。まだまだやれる!と言い聞かせなければやっていけない、いわばカンフル剤のようなものです。
とはいえ、それを平時の日常を暮らす私たちの前でやられてもテンションの差に置いて行かれるのはわかります。しょうがない。もしかしたらそれすらも、監督の意図なのかもしれませんが。
この作品には個人としてのヒーローは存在しません。現実にヒーローは存在しないからです。ですからゴジラと対峙する主人公は群体としてか存在できないわけで、その群体を普通のフィクションの主人公とおなじように祭り上げると色々よくないことがおこることの一例でもあったわけです。
本当は最後まで一気に書き上げたかったんですが、しんどくなってきたのでここまで。本当はストップウォッチで時間測りながらゴジラのプロット構成の考証をしたりしたかったんですが、眠いのでまた今度。多分来週くらいに続きを書きます。